●パパのお部屋 | ●ママのお部屋 | ●つっきーのお部屋 |
出生時 | 産まれた時、体重約4キロの巨大ベビーだった私。母親曰く死にそうやったと・・・ そりゃそうだろう!考えるだけでぞーっとするわ。でもいつもいつも「4キロ4キロ」 といわれ続けた私は、辛かった。私も小さく産んで欲しかったよぉ〜何もわからな い私は、お母さんが私を妊娠してる時に、食べ過ぎたとばかり思っていた。 もうちょっと食事制限して欲しかったと思っていた。お宮参りの写真見てもぶくぶく でしかめっ面。誰にも見せられないような写真だった。それが引き伸ばされて家に 飾ってあった。見るたびに落ち込む私だった。 |
幼少時 | もう少し前の話に戻るけど、すくすく育った私は幼稚園の時も絶対男の子と間違え られてた!真っ黒だわ、傷だらけだわ、太ってるし、ヤンチャだし、なんと言っても 母がその当時流行ってた?「梓みちおカット」(知らない人のために・・・今だったら 和田あきこみたいなヘアスタイルかな?)を私にしてた。私が当時の写真を見ても 納得!男の子にしか見えへん・・・ なんでこのヘアスタイルを選んだんやろぉ?もっと他にいっぱいあるやろぉ!? その後マッシュルームカットにされ高校まで続いた。なんでマッシュルームカットや ねん!フィンガーファイブじゃあるまいし・・・ちなみに母の幼い時の写真を見たら ロングヘアーでカールしてあってかわいい・・・おばあちゃんの趣味だったらしい。 当時では相当モダンだっただろう。その反動なのか?!私を大きく産んだだけでは 物足らず、男の子仕様にするなんて、あんまりだぁ〜〜しかも兄貴のお古の服を着 せられて、女の子に見えるわけがない! 私も今はその反動か、つっきーにフリフリを着せまくってる・・・あっ、今この文を書い ていて気がついた。フリフリ着せてたのは無意識だった。と言うことは、私の孫は男 の子みたいな格好になるのだろうか?人生摩訶不思議である!反動が反動を呼ぶ ???でもつっきーはフリフリ着ても男の子みたいだった。(爆) (──┬──__──┬──) ま、いつかは私のような絶世の美女になること間 違いないので、気にしない!気にしないようにしよう!はぁ〜 |
小・中期時 | こんな私でも成績はよかった。(自分で言うのもなんだが)当たり前である!家庭 教師に塾にピアノにお習字・・・毎日とても忙しかった。もちろん家事もやっていた。 ご飯なんて幼稚園の頃から炊いていた。洗濯物を取り入れるのも、たたむのも、 風呂掃除も、晩ご飯作るのも、我が家では当たり前のことだった。でも掃除は苦手 !あの掃除機・・・これがやっかいである。言うことをきかない!!いまだにそうだ! 家事に「拭き掃除」と「掃除機がけ」がなかったら、どんなに幸せだろう・・・また話 が脱線してしまった(爆) この頃遊んでいたら「誰のお陰で大きくなったとおもてるんや!」ってよく叱られた。 「産まれた時から大きかったわい!」と心でぼやきながら、毎日手伝いに励んだ。 その私にとってのオアシスが塾と習い事だった。それを理由に家に居なくて済むか らだ.。ほんとパラダイスだった。家庭教師の先生が来る時なんて、豪華おやつにお 食事まで付いていた。ほんとラッキーだった。勉強が終わっても先生を帰さずに喋り 捲った。ほんと楽しかった。(先生は一刻も早く帰りたかったのだろうが)ありがとう、 先生!!お蔭様で貴子は不良にならずまっすぐ育つことができました。感謝! (まっすぐかどうかはねぇ〜(爆)) ま、その甲斐あって某有名私立中学校受験で見事合格!各して私の女子学院生 活が始まった。この頃は気付いてなかったが、この後私は女子中・高・大・女ばっ かりの職場生活になっていったのでした。女!女!女! ともあれ朝6時起きの生活が始まり、毎日慌てて家を飛び出し、よくお弁当を忘れ た。そして電車の中で近所の方に「お弁当だよ」って渡されたものでした。(爆) 感謝!感謝!なんだけど恥ずかしかったなぁ〜母の厳しさもあって小・中・高と皆 勤か正勤だった私!ほんと今思えば偉かったなァ〜他はどうであれ・・・(苦笑) この頃から親戚が集まった時によく「貴ちゃん痩せてよかったなぁ〜将来は相撲 取りか、プロレスラー?しかなられへんと思ってたわ。今は松田聖子みたいや」と 言われた何処をどう見たら聖子ちゃんなんだか?(うちの親戚は、例えがついて いかれへんと言うか口が勝手にしゃべってると言うか・・・)ま、松田聖子はどうで もいいのだが、相撲取りって・・・ヽ(`⌒´)ノむっき〜わたしゃ女やっちゅうねん! ちなみに私はそんなに細くはなかった。162センチ58キロだったと思う。その時 誓った。絶対痩せてやるとその気持ちは産後にも続く・・・永遠に・・・ フォーエバァーだろうなぁ〜きっと・・・あの世まで持っていきそうだ。 |
高校期 | 高校生の時勉強についていけなくなった。180人中大学へ進学するのは175人 と言う進学校で、私は不安をおぼえないではいられなかった。どっか私の行ける 大学はあるんだろうか?勉強をと思うのだが、この頃家が倒産!大変な中、私 の身柄も自由になってアルバイトもOKになった。(学校では禁止だったんだけど ね)今までは「アルバイトする暇あったら家の仕事手伝え!」って言われて、春 休みも夏休みも冬休みも日曜・祭日も、塾・習い事以外はずっと家のアルバイト ・・・これもアルバイトと言えるようなものではなかった。なんせ自給100円と言う 鬼のような値段!しかも重労働・・・私もよく働いたと思う。夏休みは働き過ぎて( 毎朝8時から夜10時まで)痩せてしまった。48キロに・・・。しかし痩せたかった 私はものすごく嬉しかった。制服も新調して、ルンルンだった。みんなに羨ましが られた・・・しかし春までもたなかった。世の中そんなに甘くなかった。リバンドは きつよね。前の制服取っといてよかった!ハハハ・・・(号泣) この頃絶対この家を出ようと決心!それには大学へ行くしかない!しかし毎週土 ・日と祭日はアルバイトへ行って、勉強ができない!そこで高校3年の時に高校2 年の子の家庭教師を決行。みんな私が賢いと勘違いしていた!それは中学校ま での話だ!もちろん高校2年生の勉強なんて見れるわけない!!教えながら勉 強したした!もう「家を出たい」と言う思いのなせる業!!お金をもらいながら自 分の勉強できるなんて・・・最高のアルバイトだった各して無事大学生になること ができました。パチパチ! このころ私にもやっと春が訪れました。急にもてだして・・・自分でもびっくり〜ラブ レターをもらったり、告白されたり・・・なんだかねぇ〜短い春だったような・・・(笑) デートする時間なんかなかったからなぁ〜夕方5時30分に帰っても「遅い!」って 怒られてたもんなぁ〜健全やったわ。(O.O;)(oo;) うんうん |
大学期 | 家を出るために京都の大学を選んだ!なんか京都に憧れてたし住んでみたかっ たのもある本当は横浜のフェリス女子大に行きたかったのだが、これは猛反対に あい断念!ま、これも横浜に住みたいって思っただけなんだが(なんて動機が不 純なんだろう・・・)ま、受かるかどうかも定かではなかったのだが・・・ 寮の面接も受かって、無事大学生活が始まりルンルンの毎日を過ごした。ほんと 自由を満喫していた。どの人も「今のうちに遊んどきや!」と言ってたけど、私は「 これ以上どうしたらいいんだろう?」って思うくらい毎日充実していた。懲りずに高 校3年生の家庭教師もした。2人とも無事合格した。よかった。ほんとよかった。 後は中学生の子の家庭教師を長いことさせてもらった。今だにご家族にもよくして もらっている。ほんとにありがたいことである。夕ご飯もほんとお世話になってしま った。一人暮しの私にはほんと助かった。後は居酒屋、パブ、喫茶店、デモ販売な どほんとよく働いた。学校へ行くのも忘れて・・・そうそうプロレスラーに花束渡す バイトもやった。渡してリングから降りると、握手の嵐だった。何故?と思いつつア イドルになった気分だった。花束渡した人は藤波さんだった。かっこよかったけど、 私には興味がなかった。ただ怖かった。レーサーの中島さんも来ていたけど、綺 麗な女の人と一緒だった。もしかしてレースクィーンだったのかも? その後色んな芸能界の人と仲良くなれると言うかお知り合い?になれた。黒木瞳 さんにはカレーうどんをおごってもらい、根津甚八さんにはクロコダイルダンディの 映画に連れて行ってもらったり、食事に行ったり、、競馬の武豊さんにはドンペリを ご馳走になった。千葉真一さんにはブランディをいただき、オリックスの野球選手( 名前忘れた・・・)にはマハラジャに連れて行ってもらった。いやはやよく食べたもん だ。祇園の御茶屋さんにも連れて行ってもらった。舞妓さんとも遊んだ。 常連さんでも見れないと言う日本に2つしかない(もう1つは皇室にあるそうだ)雛人 形も拝見できた。「この雛人形を見れた女性は幸せな結婚ができる」と言われてる そうだ。当たった。(そう言うことにしておこう) 自由に生活していると、毎日下痢していたのがピタッと治った。やっぱり神経から来 ていたのだとこの時はっきりわかった。そして時絶対家には帰らないと決めた。 |
就職期 | 大学の卒業式の日、母が来てくれた。珍しい・・・今まで参観日があっても来てくれ るのはおばあちゃんだった。母は仕事が忙しかった。この時にはおばあちゃんは 亡くなってたんだけど、嬉しかった。けど「家に帰って来い!」の一言だった。やっ ぱりと思った。私の意見など聞く様子もなかった。つい「うん」と言ってしまった。 京都で就職先まで決まっていたのに・・・どうしよう?と考えあぐねた。とりあえず 帰ってみた。。。でもやはり私と空気が合わなかった。衝動的にダイエーへ買い物 に行ったまま、京都へ舞い戻ってしまった。何も持たずに・・・何とかなるものである 手紙も書かずに出てきてしまった。親不幸者である!今でもあれはやり方が悪か ったと反省しているが、あの時は必死だったしかし2ヶ月後免許の更新でばれてし まった。。。ハハハ・・・ でも母は以前とは違った。やさしくなっていた。いまだやさしい・・・その方が怖いと思 う私・・・何故? |
結婚期 | パパとは保険会社に勤めてるときに知り合った。先輩がパパの会社の 担当だった。成績挙げたいので付いて来て!って言うことで、飲み会に誘われた。 ほんとは違う子達とコンパの予定だったらしい・・・その子達が来れなくなって代理 だった。その日は3時頃から会社の飲み会があって、酔っていた勢いで行ってしま った。そう私は最初から酔っていたんです。パパは最初めちゃよそよそしくて 感じ悪かったです。(人のこと言えるかい!)居酒屋へ行って、飲んだ!飲んだ! ビールにちゅう杯、冷酒まで・・・その後プリクラを撮ったのですが、画面に私がい ない・・・そうです。私はこけていました。(爆) そんなこんなで年が明け、まだ保険に入らないパパと遊ぶ機会が重なり、や さしさと面白さと怖さ?に引かれていきました。怖いもの見たさでしょうか?(遊んで ないで自分の成績挙げろよ!)デートは重に居酒屋だったような・・・毎日盛り上が ってました。パパのじょう舌が面白かった。今じゃ全然言ってくれないけど、よ く持ち上げてくれました。(いい気分でした)・・・「なんでもう言ってくれないの?」って 聞いたらもう言いつくしたそうです。ちぇっ!もっと言ってくれぇ〜 結婚になるきっかけはパパが先輩を引き連れて「僕のことだましてないやん なぁ?」って泣いて来たことだったような・・・ほんまおもろいわぁ〜 |
妊娠期 | こうして幸せな新婚生活を送っていた中、待望の妊娠!つわりもひどく大変なのに パパの送り迎えをさせられて、死にそうだった。妊娠5ヶ月の時には温泉旅行 に行って、日本一の吊り橋渡らせられるわ、山道運転させられるわ、大変でした。 温泉も硫黄の臭いで吐きそうでした。 安定期に入って北海道に行くことになりました。とても楽しみにしてたのに、初日に 大きな穴に足を突っ込んでしまい、思いきりずっこけました。痛かった。後は湿布! 湿布!湿布!治るまでに3ヶ月もかかりました。みんな心配するのはお腹の子の ことだけ・・・辛かったですぅ〜でも無事でよかった!いくら丼も食べれたしね。 ハハハ・・・ 次の日すし屋に行くのが歩けなくて辛くて、泣き叫んでしまいました。それでもなん とか無事到着!美味しかった。食べたら足も治ったような気がした。気のせいだっ たけど・・・今もまだちょっと痛い・・・ その後お腹の子も順調に育ち、つわりも無くなった頃、パパが生ガキが食べ たいと言い出し、私は「止めとくわ」って言ってたのに、目の前であまりにも美味しそ うに食べるので、一切れだけもらった。美味しかった。が、食あたりした。最悪!下痢 ピーやし、吐くし・・・死ぬかと思った。パパはどうもなかった。なんでやー! 次ぎに虫歯も痛み出し、麻酔まで打たれて治療・・・3日3晩痛くて痛くて寝られへ んかった。(T_T)痛いのはもうこれだけにしてぇ〜と叫んだ甲斐も無く、次ぎは腰痛 で動けなくなった。しかも足にまできてしまって・・・整骨院通いが始まった。杖ついて 歩いた。腰痛もことの外重症で寝れない日々が続いた・・・もうイヤだ!早く出て来て くれぇ〜〜〜と神に祈った。 |
出産期 | そんなこんなでやっと8月・・・いよいよと言う時先生に「お腹の子3500g近くなって きてるので早く出しましょう」って言われた。自分の過去を思っても、そうした方がい いと思い入院!でもなかなか出てくれず、子宮も8センチまで開いたけど、頭が下 りて来ない!私は体中しびれてしまって、触られても感覚無い程だった。 その間パパが付き添ってくれたんやけど、なんとこのおとこ私の分娩台で 寝よった。分娩台でやで!分娩台! しかも私が苦しんでる横で・・・食事も全部食べちゃうし、笑かすし・・・とんでもない このおとこ!(-_-メ;)テメ 結局帝王切開になったんだけど、決まった時に看護婦さんに「旦那さん呼びましょ うね」って言われ、「それだけは止めて!」って叫んでた私(笑) 産まれてからパパが来た。未だに「呼んでくれへんかった」とぼやいているが、 自業自得である。 つっきーが産まれた時「うわぁ〜パパが出て来た!」と思うくらいさいちゃん似 だったと言うかさパパそのものだった。複雑な心境だった。ちっとも私に似てい ない。こんなに苦しんだのに・・・神様は意地悪である 看護婦さんも「こんなにそっくりな赤ちゃんは間違えようが無い!」と言っていた。 しかし後日、違う人のところへ授乳に連れて行ってしまった。ママを間違えてどうす る?連れて行った先が私の友達だったから発覚したのだが。友達んちは男の子 やっちゅうねん!ヽ(`⌒´)ノむっき〜 それから私が夢にまで見た出産後の「お疲れ様!」とか「よくやったね!」なーん て言葉はなく、更に複雑な心境になった。((○`(○`ε(○`ε´○)ε´○)´○))ぶーっ! そして痛みが・・・めちゃ痛い・・・麻酔が切れて痛みが・・・う・う・うごけない! 出産したら動けると思っていたのに・・・ お風呂も1週間ダメだって・・・夏だぜ!そりゃないよぉ〜もう3日入ってないよぉ 〜〜〜〜って叫びたかった。「私臭う?」ってみんなに聞きたかったが、みんな忙 しそうなので遠慮した。 そんな中、パパができるだけ側に居てくれた。嬉しい〜〜〜ぃ!が、これが いけなかった。笑かされて傷口が痛いのなんの?!しかも傷口が悪化、化膿して しまった。再手術になり入院延長・・・ 再手術終わってベッドへ帰ったら、このおとこまた私のベッドで寝ていやがった。 ちゃうやろぉ〜〜〜 めちゃ料理の美味しいので有名な病院に入院したのに、食事は全部パパが 食べてしまうし、お風呂は入れないし(結局約1ヶ月お風呂に入れなかった。くさ〜 〜〜ぁ)散々やった。退院してからも毎日通院が続いて・・・歩くのが痛かったから、 自転車で行ってやった。抜糸もまだなのに・・・乗り降りの時だけ我慢すれば後は 楽チンだった。信号が青であることだけを願って必死でこいだ。こんなに苦しんで いるのに、私の家族は「帰りにいちじく買って来て」と頼む。なんでやねん! その後、家に帰ってから陣痛の時のビデオ見たら、苦しんでる私の後ろであの おとこがピースしてやがった・・・ |